kanoko

起きて。食って。うんち出して。寝る。

盲目的なユートピアはデストピア

右も左も、白も黒も盲信的に「これが正解」と

疑わない姿勢が私にとって、すごく怖いものとしてある。

 

「盲目的な」(「」重要)自然農法や、オーガニック志向

スピリチュアルな暗示なんかも私、個人は怖いと思ってしまう。

(こんなして枠組で語る自分の言葉たらずな部分も幻滅してしまうのだが)

もちろん、個々人の選択やライフスタイルにおける決定に関しては何も思わないが

私はその選択をしない。ただ、私はしないというだけだ。

特段、嫌悪しているわけでもない。

 

何かを盲目的(勝手に盲目と決めつけてしまうのはナンセンスだが)な視座の中に、

自分達とは意見が異なる他者が居ない、共同体。

また異なる意見を発する者を

憐れむ視座で見ているような気がしてしまうのだ。

 

自分の暮らしに注力すると、

あたかも自らが既存の世の中とは異なる生き方で

「これが間違いなく、正解」と感じてしまう。

私にも、もちろん経験がある。

 

しかし、社会や世の中で起きている様々な事象は、

結果的に自分自身にも影響がある、と私は思う。

「あなた達とわたし達は別だから」って言ってても、

何も変わらない。

「いや、変わらなくていいから」と言われたら、

やっぱり違和感があるし、私はそんな社会がいやだなと思う。

 

だって、やっぱ「おかしいだろ」って思ったら、

おかしいって言いたい。

そのためには、意見が異なる人と仲良くなる必要があると思うし、

他者には他者の譲れない言い分が存在しているはずだと思うから。

その違いを認識した上で新しいナニカが生まれて、

それが「キボウ」になるはずだから。

 

イスラエルパレスチナ対岸の火事として、

傍観していると自分が「もしも」の時に

自分がしていたように傍観されてしまうから。

 

こんなこと言うと、過激だとかカノコらしくないとか

諸々あると思うが、

やっぱ、なんか違うなと思ってしまうんだ。

 

「いろんな生き方があっていいよね」と

言われる時代だからこそ、大事に持っておきたいと

思うものはぎゅっと握っておかないと、気づかない間に

手からすり抜けてしまう気がして。

 

はっきりと自らで線を引く前に、

「知らないので教えて欲しいっす」って言えるか

どうかって、めっちゃ大事だなって。

その際、いらないプライドをいかに捨て切れるかで

見える視座は広がるなって。

 

自分がしてきてもらったみたいに

人に優しくできるようになるのかなって思うから。

 

その際、政治ってテーブルがあるがゆえに対立が

起きるんだとしたら、一旦別のテーブルに移動して話せばいい。

例えば、音楽とか漫画とか絵とか。

上等じゃなくて、粗忽な円卓でいい。

 

「ぁあ、この人とはここは違うけど、ここは似てるな〜」って

思えるから。別に無理して好きになろうだなんて、考えずにさ。

やっぱ、好きくないって思ったら離れれば良いだけで。

 

だから、右とか左とか現実とかお花畑とかの

概念全部を取っ払って、自分が大事にしたいもの全部を

私は大事にしたい。

 

たぶん、こんなして意見が異なってても話せるし、

嫌いじゃなくて「違う」ってことを認めて

尊敬できるようになったのは日本大学っていうマンモス校

全然自分とは違う生き方をしてきた大好きな

友人に会えたから知れたことだと思う。

日本大学自体の愛校心は1ミリもない)

 

とんでもなく私にとっては宝で、

ほんとうに尊敬している。

 

リスペクトと愛と礼儀は、大事にしたい。

わたしは私が思う、かっこいい大人になりたいと強く思う。