kanoko

起きて。食って。うんち出して。寝る。

こんな刻(とき)だから

 こんな刻だから、想うことがたくさんある。私が沖縄に来て早1年経つ。早いはやい。毎日が猛スピードで進行していって、気づくと便利なアプリやsnsが進化していっている。たまに見るニュースはあいも変わらず、いろんな事件が多発しているのがわかる。

 

 コロナも大変だ。おかげで、久々に思いたち関東に帰省してお母さんの美味しいご飯を食べたいと思ったのにやめた。こんな刻だから・・・想うことがある。

 

 「安心」とはなんだろうか。本質とか、正解とかは全くわからないけど私が信じて・感じて・想うことは「自分でつくれる」ことはとっても安心するなと・・・。食べ物と水は人間が生きていく上で必要不可欠だ。みんなスーパーで買い込むものを、自分で作れたら、そこには「安心」がある。村に来て、10ヶ月わたしは耕しまくった。仲間の手ももちろん借りて、今は20種類を超える野菜がすくすくと育ってくれた。

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 「ここは畑に適していない」と近所の人は言った。それは、隣の大浦湾からくる潮風と台風の影響だ。確かに、出荷するまでの生産量は見込めない。けど約250坪あれば、野菜に困らない。家庭菜園でお金はあまりかけたくない。だから、海草や腐葉土、人間のうんちと知恵を駆使して今のガーデンは作られてる。もちろん、ホームセンターで必要最低限は買った。無理のない位バイト代を使った。あと、近所の人からいろんなものをもらった、苗や種、花のほとんどが貰い物だ。

 

 『畝(うね)』の意味もわからず、初めはウィキペディアで調べまくった。おかげで、野菜はスーパーで買っていない。あと畑でアルバイトしているので、キャベツやズッキーニ、スナップエンドウを貰うことができる。本当に嬉しいことだ。この前は、近所の人からイノシシと廃鶏をもらった。美味しくいただいた。常に人に対して感謝でいっぱいになる。

 

 なにが言いたいかというと、大学で机にかじりつき政治経済を勉強して、ほとんど一切(実家でも)土に触っていなかった「畑ひよっこ」の私でも10ヶ月、いや8ヶ月あればサイズは小さいけど3人が食うに困らない野菜を育てることが出来るんだ!というのを伝えたかったのだ。それも、怠惰な私は自分のガーデンを毎日勤勉に管理している訳ではない。気分転換に、植物の成長どうかなーという具合に見ているので、週に真面目に3時間とかガーデン作業をするのは1回くらいしかない。それでも、彼ら(野菜たち)は育ってくれる。出荷する訳ではないので、形なんてものは個性的なほど愛着が湧くし、何より自らで育てたものは美味しいのだ。

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 そうして、もう一点、私がガーデンをやっていていいなと感じるのは「植物の成長」は「人間の時間」と関係なく、我が道をいく。例えば、私の心がどんなに荒くれ、荒廃していたとしても植物には関係なく成長していく。彼らは、植物の時間で生きている。人の心の波に関係なく、我が道をいくスタイルはコミュニティーという、常に変化の連続の生活の中でとても「安心」出来るものとして私の中に存在する。

 

 だから、コロナなどの世間で大きな波になるような出来事がある刻だからこそ、私は多くの人に家庭菜園をすすめたいと強く想う。お金によって、命を握られるのは私にとって、やっぱり怖いことだ。だからスーパーで野菜を「買う」から「つくる」にシフトすることができたら、また違う部分でそのお金を使うことが出来る。

 

 余談ではあるが、ここワカゲノイタリ村は水道代は払っていない。村長の具志堅くんは凄くて、洗濯や洗い物で使う水は川水から引いていて、飲み水は湧き水からとっている。この川水を引き上げるシステム(正直私はあまり理解していないのだが)も一緒に住んでいる仲間とつくってしまったのだ。この、ものづくりの部分は、本当に尊敬する。こうして、自分たちの身の回りの食べ物やものをつくれる技術・知恵を持つことは、やっぱり先行き不安なこの国に住むサバイブ法として身につけて損はないなと思うので、小さな所から自分の生活を「委ねる」から、「つくる」に変わっていったら、もっと生きやすいその中になるなと思うのです。

 

 政治というのは、選挙の時のみ姿を表すものではなくて、常に生活と共にある生命体みたいだなぁと最近よく思います。それは、自分が大学にいるときに捉えていた「政治」はなんだか、無機質で冷たくて、白・黒のイメージで心の中で常に与党に反発している部分があったけど、こうして学生ではなくなって「生活」に力点を置くようになっていくと、逆に自分自身が「政治」に身を委ねていたんだなと実感します。電気やガス、水道、食べるものなんかを無意識に楽な方に楽な方にと流されて、そこに思考を入れずにぬくぬく過ごしていたなと、テレビに映るものだけを「政治」と捉えて狭い視野だったことを痛感します。全部がみんなシフトすれば良い、万事解決というものではないとも思う。だからこそ、自分の足元から手を使って、自分たちの政治を自分たちの手で奪取していけたら、きっとそこから見える社会や世界は、世知辛い世の中じゃなくなる気がするんですよね。

 

 人間がつくった「政治」という生命体と、どう付き合っていくか。どうコネクトしていくか・・・きっと、これからいろんな場面で問われてくる気がします。その時に、自分はどう答えるか悩みながら、手と足を動かして考えていくことは、とても尊いことだと思います。自分ができるところから、やっていきましょ。

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沖縄県名護市 ワカゲノイタリ村にて。