kanoko

起きて。食って。うんち出して。寝る。

価値について考えること

 

 たまに、本を読んでいるとあらゆるものが、まさしくピタリと「ハマる」感覚がある。実践的な経験と自分の思考・思想とがハマる時、やっと言語化できるんではないかと嬉しくなる。

 

 実家に里帰りした際に、お食事を御馳走になった名栗のおじいさんからもらった『自由論』(著:内山節)著書には、沖縄の田舎で暮らす私に響いた言葉がたくさんあった。それは、実際にお金をたくさん稼ぐよりも生活(生きる活動)に力点を置いて自らで「豊かさ」を作ることができるのではないか?と言う私の人生をかけた大実験の真っ最中というのもあって、100%の自給自足ではないけれど、生活できてかつ、それが楽しい暮らしを作ってみたいという私の願望にこの本はいろんなヒントを与えてくれた。

 この本の中で語られている、価値があるもの・そうでないもの、何を価値とするかと言う話をここではしたいとおもったのだ。こりゃ、面白いのだ。

 

 まずは、水とダイヤモンドの話から。これは、アダムスミスの『諸国民の富』の中にある話で、水には人が生きていく上で必要なものとして「使用価値」があり、そのものが持っている「有用性」があると言っている。この生きていく上で必要なもの(「有用性」)に、包まれている時、暮らしが「豊か」になる。一方、ダイヤモンドには、使用価値はないが「交換価値」があると言う。市場経済において、価格として現れる交換上の価値のことである。

 

 ようは、市場経済において交換上の価値とは商品の価値で、簡単に言うと「お金」になることだ。ダイヤモンドはお金になるが、水は人が生きていくのに必要なものであるのに価格に変換すると、ダイヤモンド程高くならない!これは、水に価値がないってことではなくて、そもそも価値の物差しが違う!って言っているのだ。

 

 しかし、昨今はアメリカはじめ我が国日本も「市場経済」なるものが幅をきかせている。市場経済を、本当にざっくり説明するとお金によって回る経済のことである。ここで、お金以外の経済があるの!?と思う人もいると思うが、これはのちに説明するとして、最もここは「交換価値」について話たい。

 

 「交換価値」によって回っている市場経済は、何よりそこで「お金」が大いなる価値としてあるから、環境に配慮しない生産方式を採用したり、大量生産をしてしまったり、使い捨て、廃棄なんて問題が出てきてしまう。この本の節では、市場経済には現れない場外の市場があるのでは?と言っている。

 

 それは、つまりわかりやすくいうと「お金にならない経済活動」家庭菜園やボランティアのような「非市場」と言って、モラルエコノミーとも言う。昔は、この非市場が大きなパイを占めて、市場は小さかった。そこで行われていたのは、物々交換や市場を介さない交流であった。しかし、現在はまさに、そのパイは逆転した。市場が大きなパイを占め、非市場は都市は稀で田舎では多少残る形に変容した。

 

 少し個人的な話をしたいと思う。それは、最近私があるSNSの投稿で落ち葉をごみ袋に入れてゴミ取集車が運ぶという至って単純な知人の投稿だったのだが、なんだか不思議な気持ちになったのだ。それは、私が今新たに新居で家庭菜園を始めるべく堆肥になりそうなものを探していたため、わざわざゴミ袋に堆肥になる落ち葉をつめることが不思議でたまらなかったのだ。私にとって、そのゴミ袋に入った落ち葉は「有用性」があるものだった。でも、それは市場においては価値ないものということだ。まさしく、それはゴミなのだ。

 

 水の話を思い出そう、水は人が生きていく上で価値あるものだ。これを「使用価値」というのだが、そこには「有用性」というなくてはならないという意味がある。私の生活は、実は結構「交換価値」も多い。服や靴、使い捨てのものもある。100%は「使用価値」や非市場に身を任せることはできない。でも、身の周りのものを有用なものへと高めていくことは可能なのかも!と思ったのだ。例えば、草刈りした後の枯れ技は燃やして灰にすれば畑に混ぜて栄養になるし、飲み終わったコーヒーは灰皿に入れたら消臭できる。

 

 

 要は、こんな有用なものへと高めていく人間の文化を創造する自由が私にはあるんだ。とすごく、晴れやかな気持ちになったのだ。

 

 実際、生活に力をいれると言ってもお金がなさすぎる時があって落ち込んだり、結局「この世は、お金をたくさん稼いだ方がいいのでは?」と不安になったりする。でもやっぱり70年代のヒッピーではないが、こんな不安定すぎる情勢の中で確かなものを自分の手で生み出していくことの自信や強みはあるのだと思う。大学時代も感じたことなのだが、人と違うことを前提に何を選び取り、そこで学びとるかというのが大事なことなんだなと思い出しました。