Instagram <kano620>より
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「この世界はみえないものに溢れている
微生物やウィルス、発酵なんかもそうだな。
全部とらえているものを描いてみました。
絵を描いていると、最初はわからないけど
どんどん探って、呼吸を聞いて
そのリズムを捉えると手が勝手に進みます。
頭で考えるよりも先にimageが噴水のように
出てきてペン先でなぞる感じなんです。
描きたいものというよりも、描いて!みたいな気になってきて、
たまに自分が乗っ取られている気すらしてきます。
それで出来た作品は、なんだか自分が描いた感じがしないから
逆に出来上がりがおもしろい。
新鮮な気持ちで見れるんです。
なんだか最近は、畑の野菜をみても、続く雨雲だったり
ウィルスのこととかも、ひっくるめて『生命』について
敏感になってる気がします。
生命に備わる美しさや不思議さ、全部あいまいだけど
その曖昧さの中で自分で確かなものを探っていく所業が
尊いなとおもうんです。
あ、珍しく長文だ。
多分ブログにかくかもだ。」
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と書いたわけですが、うん。確かに言いたいな・言語化したいなと思ってたことがふつふつと温まり地上に芽吹きそうなので、もう一踏ん張り、言葉にして記しておこうと思うのです。
今日、いつもよりも時間をかけて描いた絵が相当気に入ったのです。見る人によっては「気持ち悪いな」とか「怖いな」と思うかもしれないんですけど、私はすごく気に入ってます。他の絵ももちろん気に入っているのですが(下の方に載せていきますね)太いペンで描くアニマルたちはそれぞれ私の心がときめいた動物なんです。これらを描くときは、細いペンで描く時とはリズムがなんだか違うんです。「迷いがない」と言えば良いのか・・・。下書きをして、どうかっこよくとか美しくとか、人間基準の見え方を無意識に意識してるんだと思います。柄やラインの太さなんかを、何度も見ながら確認します。
なんと入っても私は完璧主義者なので、完璧ではない作品を見せることは裸を見られるよりも恥ずかしいことなんです。だから、アニマルたちは自分なりの完璧な段階まで仕上げて額装します。でも今日かいた「ヒト」は全然完璧ではありません。それなのに、自分的にはすごく気に入ってます。
描いてる最中、いろいろな想像が膨らむのです。形にならないもの、目にはみえないけど存在するもの、そのモノたちの姿や形、見ることができない、はずなのに捉えられてるような気がして描き進めます。正直に嘘なく、純粋に・・・。感じたまんまの純度でペンに落とします。
コトバでは、覆いきれない余剰としてはみ出してしまうモノを描いている気がします。絵は私にとって鏡のような存在です。心のモヤモヤを見えるモノとして映し出すもの、嫉妬や嫌悪、言うに言えない不満や不安が変な形をしていたり、違和感のあるものとして形になり描いている気がします。生きていき続けることは、当たり前として語られてきました。でも、時に本当にしんどくなることに出くわすことがあります。それは、人それぞれきっと異なる出来事です。
ベクトルはちがくとも、笑顔満点で「今まで辛いことが何一つなかった」と言う人を、私はあまり信じることができません。そんな出来事があった時、「ここが痛い」という痛みは他者と共有することはできません。イメージすることができても、一緒に痛みを感じることはできないのです。でも当事者(自分)は感じます。それをなんとか、他者に伝えようとします。この「痛み」の存在は非常に大事なものだと思うんです。
全てがすべて、痛みから派生して描いているのかと誤解されることがあるのですが、それは少し違います。「コトバにできない」ものを描いているのです。私からみた、世界や社会の見取り図のようなもの。ヘンテコな生き物、変な風景、遠近法のおかしいもの・・・。とらわれずに生み出し続けることは、面白くたのしいことです。やっぱり、コトバよりも絵の方が伝わるかな。笑
あ、この前個展用で具志堅くんの三線と私の絵で映像をつくりました。
もしお暇な方は、見てください。