kanoko

起きて。食って。うんち出して。寝る。

穏やかな休日

二月は流石の沖縄でも、肌寒くて長袖が必要だ。

今日から3月だけど、急に暖かくなって植えていた薔薇の花が咲いていた。

一昨日、愛犬のハチが天国に行ってしまった。

 

春を迎える前に、空に消えていってしまった。

悲しい感覚よりは、いまは天国でうまくやっていけてるか心配や

見守っていてくれている気がして、あんまり寂しくない。

もっと、もっと悲しみに明け暮れてしまうんじゃないかって

心配してたけど、なんだかスッと受け入れることができた。

 

この前、畑作業をしている時、

ずっと土に触れていたんだけど、

なんだかあんまり感じたことない感情・感覚になった。

 

ハチの死に関してのことと、

今自分が触れている土と、

見上げると広がる青空と自分の身体の全てが繋がっている感覚だ。

「いま自分はここに居る」という感覚が痛烈に駆け抜けるようなそんな感覚。

昨日まで、そこに居た、当たり前の存在が次の日、急にいなくなるという現象。

土づくりをして微生物が分解し肥やしたところにタネをまき、

生育を見守り、実をつけて収穫し、枯れていくという現象。

毎日、どこかで死があり同時に生があるという

営みの全てを空は知っていて、その下で生を享受してる自分という存在。

 

燃えていた。灰と煙が混じり晴天の下で。

そこにあったはずの体は、みるみる小さくなっていった。

自分の五感の全部を駆使して、その行為をした。

最後は、灰の中にある小さな骨や大きな骨を拾った。

目では見えなくなった、でも凄く存在はバシバシと感じて寂しさはないのだ。

 

見えないけど、そこに居る感じ。

死というものを知る自分と、

生を持っている自分がそこに立っているのだ。

 

いま、海をこえた同じ空の下では人為的に意図的に「死」がある。

人が持ちうる想像力は無限だ。一国、ましてや一個人が利益を得るために

多くの人の命を奪うことはいつの時代だって許されない、許されるはずがない行為だ。

人の持ちうる想像力を駆使して、個人の枠、国の枠そんなのは飛び越えて、

豊かではなくたって、その日常を過ごせること。それだけで十分なのだ。

 

存在の死と心の死は似ているようで、全然違う。

生命の灯火が尽きて死ぬということと、心を殺して何かを行為すること、

心の死は青空の下で灰と共に上には逝かない。

「仕方ない」の一言で底に沈殿して、溜まっていってしまう。

 

どうか、心を自分の手で持ち続けて。

誰かが悲しそうにしていることを、

自分のことに思える感受性を握っていて。

強くなくたって良くて、弱いままだって十分だよ。

逃げることにどうか臆病にならないで。

考えれば考える程、知れば知る程、

無力感に襲われるかもしれないけど、

それでも自分にも出来ることは日常の中にきっと在るから。

 

どうか、一日でも早く「穏やかな休日」が

この空を見上げている全ての人々の下に戻ってきますように。