kanoko

起きて。食って。うんち出して。寝る。

この人生が大いなる実験だとしたら

無理にでも、言葉を紡がねばならないなと思う時がある。

それは知性よりも、経済活動や自分のしたいことよりも

「しなければならないこと」に圧迫されてる時に、この心は想起する。

 

沖縄に移住して、6年経つ。

川が美しく、窓からは山が見える古民家に旦那と犬、

ヤギと暮らしていた。地域の人も優しく関係性も

出来上がっていたと思う。正直、心地の良い環境だった。

 

でも、どこかで自分に満足できない自分がそこには居た。

このまま好きに絵を描いて、畑しごとをして、休日には出掛けて、

本を沢山読むそんな豊かな暮らしのはずなのに。

先にいる自分は容易に想像できてしまう自分が怖くてたまらなかった。

将来そこに居るであろう自分の姿、その環境でにこやかに笑っている

自分の姿が想像できてしまった時、私はどうしようもなく怖く、

そこに居続けられないと思ってしまった。

 

大きな大きな社会という怪獣に心まで、

飲み込まれてしまいそうで、そのことに怯えた。

 

同じ沖縄の名護の都会の方にアパートを借りて、

人生で初めての一人暮らしを始めた。

窓を開けると、虫の声より車が走る音や、

建物と建物の間を抜ける強い風の音が聞こえ、

今までしなかった鍵を閉めて家を出るというものが習慣化した。

 

初めてのことに沢山出会う。

 

暮らしが便利になった。

クーラーは故障しないし、

契約した市営水道の水は沸かす必要なく

飲むことができる。なんて便利なのだろうか。

でも、やはりきっとそのうち慣れるのだろうと思う。

 

何よりも、1人でいる時間が必然的に増えたため、

考える・思考する時間が徐々に増えてきた気がする。

 

大きな問いとして「これから、どう生きようか」を久方ぶりに

真剣に考えている。この問いを考える上で、自分の知性の筋力が圧倒的に

衰えてしまっていることに気がついた。

思考の硬さ、以前あったであろう柔軟性のようなものが次第に形状を成して

硬質化しつつある自分の内面が露わになった。

 

いや、内面は硬質化したのか、それとも

「ここより先の一歩を踏み出す」ということに単純に怯えているのか。

いつか「この先、私はこう生きたい」というような主体的な想いが

立ち上がってくるのか、

う~ん今はよくわからないというのが本音だろう。

 

 

あ~、そうそう「この人生が大いなる実験だとしたら」という話をしたかったのだ。

 

ヒトはファンタジーやフィクション・神話を用いて歴史を構築していったと、

この前読んだ本に描いてあった。

フィクションとは、現実ではないものでありSFや小説、絵も似たジャンルだ。

 

このフィクションという魔術を私は、すごく興味深く、好意的に活用したいと思ってる。

フィクションを用いると、まさしく「物事は考えよう」な訳で、

目の前にある現実との対峙する姿勢が少し変化できるのではないか!?と考える。

 

それは、社会に生きていくためには、

真っ向から正面向いて、対峙しなければならないという規範を少し

ズラせるのではないと思うからだ。

正面向いて、真っ向勝負!、勝つか負けるか!、

正しい・正しくない!というものが私は苦手だ。

 

その見えてる景色によって、それらは変容しうるもののはずなのに、

それらの価値基準が絶対的なものにさもなり得ているような錯覚に陥り、

その規範からずれる選択肢が与えられていないような気がしてしまうからだ。

 

そこで、「この人生が大きなる実験だとしたら」というフィクションを

用いたいと思ったのだ。

実験は仮定と結果の二つによって、構成されている。

結果と仮定が必ずしも一致するとは限らないのが、

実験の面白いところだ。

 

長い長い実験をして、その蓄積をした私の目から見える景色が

どんなものであるのかということに、とても興味がある。

 

そうか究極、自分がこの目でどんな景色を見たいかという所に

私の根源的な欲求はあるのかもしれない。

 

それは、私が知性という言葉に取り憑かれているのにも理由がつく。

規範というメインロードがあるとしたら、知性はそれらの

抜け道のような気がする。

知性は歴史と共に積み上げられた抜け道だとしたら、

規範は社会を持続させていくための大きなルールのようなものだ。

 

唐突だが、

(まとまってない文章の面白い所は、

自分の記憶と目の前の文章とかリンクした時、

目の前で読んでいる観客を置いてけぼりにさせてしまう

可能性に気づいても書きたくてしょうがなくなるところに

あるのかもしれない)

 

昨日、三島由紀夫と東大全共闘

ドキュメンタリーを見て私の心は歓喜した。

ポリティクスなスタンスの違いはあるが、

両者に共通した信仰に近い知性を見たからだ。

これほどまでに、知性に取り憑かれた人が居たのかと。

自分も全然まだまだだと自覚した。

 

なぜ、私は知るということが好きなのだろうかと考えた。

 

それは、自分がまだ未知のものに惹かれ

それらを体内に収め、その見地を用いた視座で

この社会や世界を見ることで、より自分が小さな存在で

あるかを自覚できるからなのかもしれない。

 

自分が縛られているものがいかに、

しょうもない事象であるかを知りたいのだ。

これらはフィクションかもしれないが、

私にとってはノンフィクション、そう現実なのだ。

 

自分が生きていくためには、

吸収して体内に収めるという行為が

大事なものなのかもしれない。

 

それらを、何らかの形で発散、発露していく表現という形が

「私はここに生きている!」と残す行為なのかもしれない。

そこにロマンを感じるし、美しさを見出しているのだろう。

 

見えない穴があったとしたら、

初めはその前に立ちすくむかもしれないが、

やはり入らずには居られないのかもしれない。

 

正義という曖昧なものではなく、

自分が肉体感覚で知っている

好奇心の方がより確かなものとしてある。

 

動物的な知性である擬態をしながら、

仮定と結果からなる実験の観察者であり

被験者として、この人生を捧げることで

まだ見ぬ景色に遭遇できるのかもしれない。