kanoko

起きて。食って。うんち出して。寝る。

今みえてる世界を味わい尽くす

2年ぶりの個展が終わった。

準備して、見せたいもの。

為又に越して描き溜めた絵たち。

 

大好きだった彼とお別れをしたのは、私にも彼にもまだ見たい景色があって、

その景色が一緒にみるではない。別々にならないと見れない景色を、

互いに望んでいたから。最善の選択をしたと思っている。

 

もちろん、悲しかったし寂しかったし、不安にもなったし

1人の部屋でベランダから聞こえる、いろんな囁きに支配されそうになった。

暗くて、深い深海を1人漂っているような。

 

決して楽しいと思える感じでもなければ

毎日予定を入れて、忙しくしていないと気を紛らわせていかないと

「保てない」そんな感覚で時間が経つのを必死に耐えた。

 

選ばずに、見えていないフリをし続ければ

こんな深海も知らなかった。

 

それでも、見なければならないって

自分で思ってしまったし。

やっぱり気付いてるけど、知らないフリができなかった。

 

友達や周りの人にこれでもかってくらいお世話になって、

彼にも助けられて、やっと絵として出すことができたモノたちの展示。

 

「新生活」個展は人のためにやっている訳ではなくて、

自分の大きな決断の中で生まれ出てきた、感情の余剰を出す。

消化して排出するための儀式のようなもの。

 

1人で黙々と向き合って、描くってのを純粋に楽しみながら

無意識から見える景色の残像のようなものをひたすらに描いていく。

描いてる時、たぶん私はヒトじゃなくてもっと野生に近くて

感受性や感性、言葉ではあらわしきれないナニカとなって

その深海での肌触りや香り、なんかを書き写そうとする。

 

個展ってやっぱり、すごい。

作る側とみる側で本当に膨大なエネルギーが生まれるなって毎回おもう。

 

そのエネルギーは、私の背中を確実に押してくれるし、

どう生きていこうが大丈夫。

私には絵があるって思わせてくれる。

 

生み出して、見せて、話して。

真っ白から生み出され、他者の目に入ることで

新たな世界がそこに産み落とされる感覚に興奮する。

自分は世界の神になったような全能感が好きで、描いているんだとおもう。

 

世界のバグがないと、やってられない。

って、気付いた時にはそうおもうようになっていた。

 

学校教育か家庭的にとか、遡って理由を断定しようと思わないけど

なんで、みんな普通にやってのけるのか。

マジですごいなって、みんなみたいになりたかった。

 

だから、見て観察して、真似て擬態するようになった。

驚かれるようなことは、極力言わず。

それっぼく、できそうな感じでそつなくこなす感じ。

 

たぶん、私の中で人と違うことでチクチクする機会が

コンプレックスになったんだとおもう。

 

フリや擬態が板についたけど、全然おもろくなかった。

意外と、擬態しなくても結構いける友達ができて

なんか氷が溶けていく感じがあった。

 

たまに擬態はするけど、極力発動させないように、

正直に思ったことや感じたことを「表現」をつかって

外に出してみる試みをはじめた。

 

信頼する相手には可能な限り、率直な感情で。

気を使わず、顔色伺わずに伝えてみる。

そっちの方が齟齬がなくなるような気がしたから。

 

この擬態の脱皮に、警戒心が強い私は時間が必要だったし、

まだ完璧にできる訳じゃない。でも大事な人には、そう在りたい。

 

やっぱ、真っ当に生きるのが難しいし、当たり前が私にとっては、難しい。

でも手探りで失敗しながら、忠告されたから修正するんじゃなくて、自分の

肌感で知った経験をもとに自分で判断したい。

 

28歳には、28歳の私にしか見えない景色が広がっていて

今見えてる世界をとにかく味わい尽くす。どっちになっても。

 

読み返して、やっぱり私は自分のことが大好きで

この体を使って、いろんな景色を見に大冒険したいのは高校生から

変わらんのだなっておもう。やっぱ正義感より好奇心なんだな。