kanoko

起きて。食って。うんち出して。寝る。

日本大学法学部政治経済学科国際関係専門コース三年生。何も私のことわからないでしょ。だから、書きたいの。

公共空間と表現(グラフィティ)

公共空間と表現(グラフィティ)

 

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 荒唐無稽という言葉があるが、過去にその言葉を浴びせられた人々もいる。例えば、天動説が主流の中で「地球は回っている」と言ったコペルニクスや、当時ヒトは神から与えられた存在という認識が「普通」だった中で、進化論を唱えたダーウィンも同様。日本ならば、立川談志という人は、落語の既成概念を変化させた功績がある。このように、荒唐無稽と言われた人々が、今あるこの現代をつくる担い手なのだと、私は考える。

 

 そこで、今回は刑法261条(器物損害罪)を路上ペイント又は、グラフィティを軸にし、法律を再検討したいと思う。 

 

監視社会とグラフィティ

 

 昨今、国会ではご承知の通り様々な「忖度」している状態になっている。共謀罪なんて、法律が成立したら、今よりも増して監視社会ができあがるのでしょう。嫌だな。

 そこで、この監視社会が出来上がりことによって、喘ぐ人を想像してみました。その人は、国会前でプラカードを持つ人も、そのニュースを見て、笑っている人もみんなが対象になります。でも、ここで私が注目したいのは、路上でスプレー缶やステンシルを持って、夜の街を歩いている人。ただ、このように私の立場を言わずに、グラフィティーを描いてる人のことを多くの人が潜在的に「正義」か「悪」かの天秤に勝手に載せて、後者の選択をしがちです。問題は、ここにあるのです。もちろん、みんなが路上に繰り出して、人様の土地をペイントによって奪取すれば、良いなんてことは一言も言っていない。

 

法律という、絶対的「正義」と”思わせられている”ことこそ、疑う必要があると言っているのです。 

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「ストリート」ではなく「SNS

 

 どうか、こういったカルチャーの中で路上のことを、ストリートというらしいのです。60年代のアメリカ、ニューヨークのストリートではグフィティを通して見ず知らずの顔も知らない、人たちが繋がっていた。しかも、直接の対面ではなく一つの壁を通じて・・・、路上という場所に自分が存在することができた。しかし、今の日本を考えると、この状況とは逆で綺麗なビルや壁、クリーンアップされた学校に、あらゆる管理が行き届いている。もちろん、良いことなのかもしれない。だから、スマホを片手に持ちTwitterfacebookで自分を表現するのだ。

 

今のストリートは、リアルなストリートではなく、ネットの回線ストリートなのだ。

 でも、例えばネットでは炎上や、リアル世界において親密な人の愚痴なんて書けないよね。そんな、悩みだったらまだ良いけど、切実に自分の嘆きをどこかの、誰かに知ってほしい時って、どうすれば良いのだろう?この、どうしようもなく発散したい状態の中で、初めてグラフィティや公共の価値が出てくるのではないかなと思う。私にとったら、高い上野の美術館に行くよりも、ずっと新宿や渋谷、原宿の街を歩いて絵を見ている方が楽しい。私は芸術はよく分からないけど、お金を出すことの価値ではないモノサシが存在しているような気がする。

 

 要は、一般ピーポーの私が感じるのは「自分を表現」とか「自己実現」っていうけど、それを実際に表現できる場所は、あくまで管理された学校の美術の時間や、描いて良いよって言われた場所に限定されてることに違和感があるのだ。それ以外に、描いたら「正当」ではない。

 

 なんか、変な感じがする。 

 

 

「正当」という言葉が生んだ、無批判な学者信仰

 

 こう、つらつらとグラフィティと規制について自分の考えを述べてきたけども、あと少し書かせてね。

 

 例えば、超絶有名な哲学者が壁に「革命」と描いたとする。一方で、全然無名で薄汚れた格好をした人が「革命」と描いたとする。メディアが取り上げるのは、きっと前者な気がする。なぜか、超絶有名な人の何かしらのメッセージだと捉えるからね。もし、私が後者だったら、その「革命」の下に超絶有名な哲学者の名前を添える。そしたら、取り上げてもらえるかもしれないから笑

 

 あと、最近、東京に帰ってきて感じたことね。

新宿の総武線にホームには、前からアパホテルの社長の顔が大きく写ったポスターがあるんだ。正直、私はあまり好きじゃないけど、いつも、目に入る。これは、きちんと「正当」な手段であるお金というものを払って、そこに存在する。一方で、自分が好きだな~と思う電車の窓から見える、あらゆる「落書き」はその作り手が、警察に見つかると逮捕されてしまう。これが、資本主義なんだろうなと、この前しみじみと感じた。

 

 

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 言論も、美しいと思うものも、きっと芸術も価値を決めるのは、あくまで自分のはずなのに、誰かが言ってたからとか、制度でそう決まってる。とかの、いかにも「もっとも」な所にこそ、再思考のメスを入れる価値があるのではないかな。

 

 最後に、キースヘディングのコンドームのパッケージングについて。彼はたしか、自身がHIVに感染していた。そんな彼がパケージデザインした、コンドームを見た。なんか、素敵だなぁと思った理由は、学校でも社会でも性についてどこかタブー視する風潮が、この国にはあって、どうも正面切って話がしにくい気がする。でも、このキースヘディングがパッケージをしてる部分が、きちんと関心を向けてるぞ!と勝手に、メッセージを私は受け取った。これも、ブランド力なのかな?でも、素直に素敵だと私は思った。

 

以上、特に結論も、まとめもない最近考えてたことを言語化してみました。

詳しくは、私が昨日読んだ、芸術系の雑誌にインスパイヤーされたので、そちらを読んでみてね。ごめんね、名前を忘れてしまったよ。