kanoko

起きて。食って。うんち出して。寝る。

盲目的なユートピアはデストピア

右も左も、白も黒も盲信的に「これが正解」と

疑わない姿勢が私にとって、すごく怖いものとしてある。

 

「盲目的な」(「」重要)自然農法や、オーガニック志向

スピリチュアルな暗示なんかも私、個人は怖いと思ってしまう。

(こんなして枠組で語る自分の言葉たらずな部分も幻滅してしまうのだが)

もちろん、個々人の選択やライフスタイルにおける決定に関しては何も思わないが

私はその選択をしない。ただ、私はしないというだけだ。

特段、嫌悪しているわけでもない。

 

何かを盲目的(勝手に盲目と決めつけてしまうのはナンセンスだが)な視座の中に、

自分達とは意見が異なる他者が居ない、共同体。

また異なる意見を発する者を

憐れむ視座で見ているような気がしてしまうのだ。

 

自分の暮らしに注力すると、

あたかも自らが既存の世の中とは異なる生き方で

「これが間違いなく、正解」と感じてしまう。

私にも、もちろん経験がある。

 

しかし、社会や世の中で起きている様々な事象は、

結果的に自分自身にも影響がある、と私は思う。

「あなた達とわたし達は別だから」って言ってても、

何も変わらない。

「いや、変わらなくていいから」と言われたら、

やっぱり違和感があるし、私はそんな社会がいやだなと思う。

 

だって、やっぱ「おかしいだろ」って思ったら、

おかしいって言いたい。

そのためには、意見が異なる人と仲良くなる必要があると思うし、

他者には他者の譲れない言い分が存在しているはずだと思うから。

その違いを認識した上で新しいナニカが生まれて、

それが「キボウ」になるはずだから。

 

イスラエルパレスチナ対岸の火事として、

傍観していると自分が「もしも」の時に

自分がしていたように傍観されてしまうから。

 

こんなこと言うと、過激だとかカノコらしくないとか

諸々あると思うが、

やっぱ、なんか違うなと思ってしまうんだ。

 

「いろんな生き方があっていいよね」と

言われる時代だからこそ、大事に持っておきたいと

思うものはぎゅっと握っておかないと、気づかない間に

手からすり抜けてしまう気がして。

 

はっきりと自らで線を引く前に、

「知らないので教えて欲しいっす」って言えるか

どうかって、めっちゃ大事だなって。

その際、いらないプライドをいかに捨て切れるかで

見える視座は広がるなって。

 

自分がしてきてもらったみたいに

人に優しくできるようになるのかなって思うから。

 

その際、政治ってテーブルがあるがゆえに対立が

起きるんだとしたら、一旦別のテーブルに移動して話せばいい。

例えば、音楽とか漫画とか絵とか。

上等じゃなくて、粗忽な円卓でいい。

 

「ぁあ、この人とはここは違うけど、ここは似てるな〜」って

思えるから。別に無理して好きになろうだなんて、考えずにさ。

やっぱ、好きくないって思ったら離れれば良いだけで。

 

だから、右とか左とか現実とかお花畑とかの

概念全部を取っ払って、自分が大事にしたいもの全部を

私は大事にしたい。

 

たぶん、こんなして意見が異なってても話せるし、

嫌いじゃなくて「違う」ってことを認めて

尊敬できるようになったのは日本大学っていうマンモス校

全然自分とは違う生き方をしてきた大好きな

友人に会えたから知れたことだと思う。

日本大学自体の愛校心は1ミリもない)

 

とんでもなく私にとっては宝で、

ほんとうに尊敬している。

 

リスペクトと愛と礼儀は、大事にしたい。

わたしは私が思う、かっこいい大人になりたいと強く思う。

 

 

今みえてる世界を味わい尽くす

2年ぶりの個展が終わった。

準備して、見せたいもの。

為又に越して描き溜めた絵たち。

 

大好きだった彼とお別れをしたのは、私にも彼にもまだ見たい景色があって、

その景色が一緒にみるではない。別々にならないと見れない景色を、

互いに望んでいたから。最善の選択をしたと思っている。

 

もちろん、悲しかったし寂しかったし、不安にもなったし

1人の部屋でベランダから聞こえる、いろんな囁きに支配されそうになった。

暗くて、深い深海を1人漂っているような。

 

決して楽しいと思える感じでもなければ

毎日予定を入れて、忙しくしていないと気を紛らわせていかないと

「保てない」そんな感覚で時間が経つのを必死に耐えた。

 

選ばずに、見えていないフリをし続ければ

こんな深海も知らなかった。

 

それでも、見なければならないって

自分で思ってしまったし。

やっぱり気付いてるけど、知らないフリができなかった。

 

友達や周りの人にこれでもかってくらいお世話になって、

彼にも助けられて、やっと絵として出すことができたモノたちの展示。

 

「新生活」個展は人のためにやっている訳ではなくて、

自分の大きな決断の中で生まれ出てきた、感情の余剰を出す。

消化して排出するための儀式のようなもの。

 

1人で黙々と向き合って、描くってのを純粋に楽しみながら

無意識から見える景色の残像のようなものをひたすらに描いていく。

描いてる時、たぶん私はヒトじゃなくてもっと野生に近くて

感受性や感性、言葉ではあらわしきれないナニカとなって

その深海での肌触りや香り、なんかを書き写そうとする。

 

個展ってやっぱり、すごい。

作る側とみる側で本当に膨大なエネルギーが生まれるなって毎回おもう。

 

そのエネルギーは、私の背中を確実に押してくれるし、

どう生きていこうが大丈夫。

私には絵があるって思わせてくれる。

 

生み出して、見せて、話して。

真っ白から生み出され、他者の目に入ることで

新たな世界がそこに産み落とされる感覚に興奮する。

自分は世界の神になったような全能感が好きで、描いているんだとおもう。

 

世界のバグがないと、やってられない。

って、気付いた時にはそうおもうようになっていた。

 

学校教育か家庭的にとか、遡って理由を断定しようと思わないけど

なんで、みんな普通にやってのけるのか。

マジですごいなって、みんなみたいになりたかった。

 

だから、見て観察して、真似て擬態するようになった。

驚かれるようなことは、極力言わず。

それっぼく、できそうな感じでそつなくこなす感じ。

 

たぶん、私の中で人と違うことでチクチクする機会が

コンプレックスになったんだとおもう。

 

フリや擬態が板についたけど、全然おもろくなかった。

意外と、擬態しなくても結構いける友達ができて

なんか氷が溶けていく感じがあった。

 

たまに擬態はするけど、極力発動させないように、

正直に思ったことや感じたことを「表現」をつかって

外に出してみる試みをはじめた。

 

信頼する相手には可能な限り、率直な感情で。

気を使わず、顔色伺わずに伝えてみる。

そっちの方が齟齬がなくなるような気がしたから。

 

この擬態の脱皮に、警戒心が強い私は時間が必要だったし、

まだ完璧にできる訳じゃない。でも大事な人には、そう在りたい。

 

やっぱ、真っ当に生きるのが難しいし、当たり前が私にとっては、難しい。

でも手探りで失敗しながら、忠告されたから修正するんじゃなくて、自分の

肌感で知った経験をもとに自分で判断したい。

 

28歳には、28歳の私にしか見えない景色が広がっていて

今見えてる世界をとにかく味わい尽くす。どっちになっても。

 

読み返して、やっぱり私は自分のことが大好きで

この体を使って、いろんな景色を見に大冒険したいのは高校生から

変わらんのだなっておもう。やっぱ正義感より好奇心なんだな。

今より先を生きてる私へ

たまには、スケッチブックを置いて

文字を書くことも私の中で大事な儀式だ。

 

随分遠くまで、やってきた。

あの時想像できなかった場所や人に今囲まれて

日々、しょげたりもしながらも

「大人」ってのを楽しんでる。

 

解けない謎や、

どう考えているのかとか

まだまだ、全知全能にはなれてないし、

イケてて猛烈に稼げてて庭付き一戸建てを

買える程の稼ぎはないけど

胸を張れる今の人生、私の道を進んでる。

 

だから、もう少し未来の私

大丈夫。立ち止まって考えながら、

たまに羽目を外して遊んで、

少し傲慢にでもやりたいことや

生きたいと思える人が居るならやってみな。

案外、悪くないよ。

 

むしろ、想像が届かない、その彼方に

私の生き甲斐である「おもしろい」があるから。

 

多分、またこうやって思える自分がいるから。

 

間違ったとか、失敗しそうとか

その時に思えばいいよ。

 

世界地図の中心は確か、

イギリスだったけどその中心を決めるのは、

本来自分以外の何者でもない訳で

正しいのモノサシは強要するものでもないから、

自分の中でしっかり持って、

たまに人と話して崩したり

生成したりしながら暮らしていこう。

 

やっちまった時とか

「絶対に忘れない」って思う大事な

感情あるじゃん、あれさ、

結構忘れてしまいがちだから。

 

その時、

いかにホットであぁ~って嘆いても、

クールダウンして忘れかけたタイミングとか、

どこか慣れてしまったり地に足ついてないで

浮遊してしまってたりすると違う角度から、

忘れちゃいけないものがやってくるから。

その時、私は試されているんだぞ!って思いな。

 

「学習」できる自分を信じて、

「何が大切か」を今一度、

思考を巡らして自分が自分に対して

「それ、私かっこいいか?私にとって大事なんか?」

って考えてみて。それでも、

GOを自分が出せるなら良いと思う。

 

でも、違うと思うんだったら

未来に描いてる自分のために、やめとこ。

我慢とかじゃなくて、

冷静になった自分のために。

 

それと、そこを指摘してくれる人を

大切にしなね。大事なことなんだよ

 

自分まだまだっす。

ってのを、いつだって肝に銘じて。

 

いろんなものを吸収して、

自分のものにしていけたらそこに意味が生まれる。

けど、1人だけではやっぱり、

どうしたって生きていけない。

 

そんな自分も在るから、

「1人で生きるぞ」って孤独にならず、

「ちょっと、話聞いて~」って頼ることは、

弱さなんかじゃないから

どうか嫌悪せずに嘆いてもいいじゃない。

 

有名にならなくていいよ。

お金で魂を売っぱらわず、

譲れないものは譲れないとして。

 

でも、ナニゴトも絶対はないから

その時の私が「決断」したなら、

そこは任せる。

後悔したとしても、

そこに私の掛け金を置きたいって

思ったなら、その行為を応援するよ。

 

大切にしたいと思える人が、

そばに居るなら大事にしなね。

 

大事にって言葉を使うと、

ちょっとわかりづらくて、

いつか、しくじっちゃう私のためにもっと言うと、

今は好きで相手を「大切」にって、思えてるけど

時間と慣れは、いい作用と大事なことを

霞ませる作用を持っているから

人としてのリスペクトや感謝を忘れず。

 

コトバとか、わかりやすい表象の裏にある

そのコトバを言ってくれた「選択」

(言わなくたって良いって選択もある)に

ありがとうって思える心を持ち続けなね。

 

それと、いかに長く一緒に居たとしても

「他者」であることは変わりない訳で、

もちろん一緒に同じものを見たり

同じ経験を共有するから、きっと楽しいし、

わかり合えてるって感覚になる、

きっとそれは嘘ではないと思う。

 

でも頭の片隅に少しだけでいいから、

違う個性を持った「他者」であるから、

「完全」に分かり合うことはできないって、

覚えておいて。

 

いつか

「なんで、わかってくれないの」って

感情が出てきた時に、分かり合えないからこそ、

分かりあいたくて、そのために沢山コトバを

獲得して、相手を知って、1人では辿りつけなかった

地点にこの人とだったら、

行きたいって思った私を思い出してね。

 

単調な生活が続くのが苦手な私だから、

そこを満たすのを他者に委ねるんじゃなくて

自分でいつだって動きなね。

 

環境が固まって、現在地が定まってくると

「先が見える」って思えるけど、あくまでそれは、

その時の現在地から見える風景でしかないから。

 

この世界は私が歩いていけば見えない世界は

続いてるってことを、思い続けて。

 

そこから動けない自分を人のせいにしないで。

動かないって選択したのは、私なんだから。

もし、そのことを言える相手が居るなら

一緒に見に行ってもいいね。

 

そこは、私の悪い所なんかじゃなくて

癖みたいなものだから。

 

刺激というものは、

私にとって必須な栄養素なんだと思う。

だから興味が湧いたものや本とか映画とか、

読みたいと思ったものは

時間を削ってでも見て吸収していきなね。

もはや趣味なんかじゃなくて生を楽しむために

私にとって必須なものなんだと思う。

 

最後に、

きっと言わなくてものやってるのかな。

描きなね。

もしも、見る人が居ないとしても「生み」出し続けて、

カタチにコトバにできないものを、見えるようにする行為を

わたしのためだけにでもいいから。

沢山じゃなくていい、自分がいいと思えるまで。

この山の先の景色がやっぱり私は見たいんだ。

 

2023.12.20 28歳.激動で思い出深く最高な1年だった私より

この人生が大いなる実験だとしたら

無理にでも、言葉を紡がねばならないなと思う時がある。

それは知性よりも、経済活動や自分のしたいことよりも

「しなければならないこと」に圧迫されてる時に、この心は想起する。

 

沖縄に移住して、6年経つ。

川が美しく、窓からは山が見える古民家に旦那と犬、

ヤギと暮らしていた。地域の人も優しく関係性も

出来上がっていたと思う。正直、心地の良い環境だった。

 

でも、どこかで自分に満足できない自分がそこには居た。

このまま好きに絵を描いて、畑しごとをして、休日には出掛けて、

本を沢山読むそんな豊かな暮らしのはずなのに。

先にいる自分は容易に想像できてしまう自分が怖くてたまらなかった。

将来そこに居るであろう自分の姿、その環境でにこやかに笑っている

自分の姿が想像できてしまった時、私はどうしようもなく怖く、

そこに居続けられないと思ってしまった。

 

大きな大きな社会という怪獣に心まで、

飲み込まれてしまいそうで、そのことに怯えた。

 

同じ沖縄の名護の都会の方にアパートを借りて、

人生で初めての一人暮らしを始めた。

窓を開けると、虫の声より車が走る音や、

建物と建物の間を抜ける強い風の音が聞こえ、

今までしなかった鍵を閉めて家を出るというものが習慣化した。

 

初めてのことに沢山出会う。

 

暮らしが便利になった。

クーラーは故障しないし、

契約した市営水道の水は沸かす必要なく

飲むことができる。なんて便利なのだろうか。

でも、やはりきっとそのうち慣れるのだろうと思う。

 

何よりも、1人でいる時間が必然的に増えたため、

考える・思考する時間が徐々に増えてきた気がする。

 

大きな問いとして「これから、どう生きようか」を久方ぶりに

真剣に考えている。この問いを考える上で、自分の知性の筋力が圧倒的に

衰えてしまっていることに気がついた。

思考の硬さ、以前あったであろう柔軟性のようなものが次第に形状を成して

硬質化しつつある自分の内面が露わになった。

 

いや、内面は硬質化したのか、それとも

「ここより先の一歩を踏み出す」ということに単純に怯えているのか。

いつか「この先、私はこう生きたい」というような主体的な想いが

立ち上がってくるのか、

う~ん今はよくわからないというのが本音だろう。

 

 

あ~、そうそう「この人生が大いなる実験だとしたら」という話をしたかったのだ。

 

ヒトはファンタジーやフィクション・神話を用いて歴史を構築していったと、

この前読んだ本に描いてあった。

フィクションとは、現実ではないものでありSFや小説、絵も似たジャンルだ。

 

このフィクションという魔術を私は、すごく興味深く、好意的に活用したいと思ってる。

フィクションを用いると、まさしく「物事は考えよう」な訳で、

目の前にある現実との対峙する姿勢が少し変化できるのではないか!?と考える。

 

それは、社会に生きていくためには、

真っ向から正面向いて、対峙しなければならないという規範を少し

ズラせるのではないと思うからだ。

正面向いて、真っ向勝負!、勝つか負けるか!、

正しい・正しくない!というものが私は苦手だ。

 

その見えてる景色によって、それらは変容しうるもののはずなのに、

それらの価値基準が絶対的なものにさもなり得ているような錯覚に陥り、

その規範からずれる選択肢が与えられていないような気がしてしまうからだ。

 

そこで、「この人生が大きなる実験だとしたら」というフィクションを

用いたいと思ったのだ。

実験は仮定と結果の二つによって、構成されている。

結果と仮定が必ずしも一致するとは限らないのが、

実験の面白いところだ。

 

長い長い実験をして、その蓄積をした私の目から見える景色が

どんなものであるのかということに、とても興味がある。

 

そうか究極、自分がこの目でどんな景色を見たいかという所に

私の根源的な欲求はあるのかもしれない。

 

それは、私が知性という言葉に取り憑かれているのにも理由がつく。

規範というメインロードがあるとしたら、知性はそれらの

抜け道のような気がする。

知性は歴史と共に積み上げられた抜け道だとしたら、

規範は社会を持続させていくための大きなルールのようなものだ。

 

唐突だが、

(まとまってない文章の面白い所は、

自分の記憶と目の前の文章とかリンクした時、

目の前で読んでいる観客を置いてけぼりにさせてしまう

可能性に気づいても書きたくてしょうがなくなるところに

あるのかもしれない)

 

昨日、三島由紀夫と東大全共闘

ドキュメンタリーを見て私の心は歓喜した。

ポリティクスなスタンスの違いはあるが、

両者に共通した信仰に近い知性を見たからだ。

これほどまでに、知性に取り憑かれた人が居たのかと。

自分も全然まだまだだと自覚した。

 

なぜ、私は知るということが好きなのだろうかと考えた。

 

それは、自分がまだ未知のものに惹かれ

それらを体内に収め、その見地を用いた視座で

この社会や世界を見ることで、より自分が小さな存在で

あるかを自覚できるからなのかもしれない。

 

自分が縛られているものがいかに、

しょうもない事象であるかを知りたいのだ。

これらはフィクションかもしれないが、

私にとってはノンフィクション、そう現実なのだ。

 

自分が生きていくためには、

吸収して体内に収めるという行為が

大事なものなのかもしれない。

 

それらを、何らかの形で発散、発露していく表現という形が

「私はここに生きている!」と残す行為なのかもしれない。

そこにロマンを感じるし、美しさを見出しているのだろう。

 

見えない穴があったとしたら、

初めはその前に立ちすくむかもしれないが、

やはり入らずには居られないのかもしれない。

 

正義という曖昧なものではなく、

自分が肉体感覚で知っている

好奇心の方がより確かなものとしてある。

 

動物的な知性である擬態をしながら、

仮定と結果からなる実験の観察者であり

被験者として、この人生を捧げることで

まだ見ぬ景色に遭遇できるのかもしれない。

穏やかな休日

二月は流石の沖縄でも、肌寒くて長袖が必要だ。

今日から3月だけど、急に暖かくなって植えていた薔薇の花が咲いていた。

一昨日、愛犬のハチが天国に行ってしまった。

 

春を迎える前に、空に消えていってしまった。

悲しい感覚よりは、いまは天国でうまくやっていけてるか心配や

見守っていてくれている気がして、あんまり寂しくない。

もっと、もっと悲しみに明け暮れてしまうんじゃないかって

心配してたけど、なんだかスッと受け入れることができた。

 

この前、畑作業をしている時、

ずっと土に触れていたんだけど、

なんだかあんまり感じたことない感情・感覚になった。

 

ハチの死に関してのことと、

今自分が触れている土と、

見上げると広がる青空と自分の身体の全てが繋がっている感覚だ。

「いま自分はここに居る」という感覚が痛烈に駆け抜けるようなそんな感覚。

昨日まで、そこに居た、当たり前の存在が次の日、急にいなくなるという現象。

土づくりをして微生物が分解し肥やしたところにタネをまき、

生育を見守り、実をつけて収穫し、枯れていくという現象。

毎日、どこかで死があり同時に生があるという

営みの全てを空は知っていて、その下で生を享受してる自分という存在。

 

燃えていた。灰と煙が混じり晴天の下で。

そこにあったはずの体は、みるみる小さくなっていった。

自分の五感の全部を駆使して、その行為をした。

最後は、灰の中にある小さな骨や大きな骨を拾った。

目では見えなくなった、でも凄く存在はバシバシと感じて寂しさはないのだ。

 

見えないけど、そこに居る感じ。

死というものを知る自分と、

生を持っている自分がそこに立っているのだ。

 

いま、海をこえた同じ空の下では人為的に意図的に「死」がある。

人が持ちうる想像力は無限だ。一国、ましてや一個人が利益を得るために

多くの人の命を奪うことはいつの時代だって許されない、許されるはずがない行為だ。

人の持ちうる想像力を駆使して、個人の枠、国の枠そんなのは飛び越えて、

豊かではなくたって、その日常を過ごせること。それだけで十分なのだ。

 

存在の死と心の死は似ているようで、全然違う。

生命の灯火が尽きて死ぬということと、心を殺して何かを行為すること、

心の死は青空の下で灰と共に上には逝かない。

「仕方ない」の一言で底に沈殿して、溜まっていってしまう。

 

どうか、心を自分の手で持ち続けて。

誰かが悲しそうにしていることを、

自分のことに思える感受性を握っていて。

強くなくたって良くて、弱いままだって十分だよ。

逃げることにどうか臆病にならないで。

考えれば考える程、知れば知る程、

無力感に襲われるかもしれないけど、

それでも自分にも出来ることは日常の中にきっと在るから。

 

どうか、一日でも早く「穏やかな休日」が

この空を見上げている全ての人々の下に戻ってきますように。

価値について考えること

 

 たまに、本を読んでいるとあらゆるものが、まさしくピタリと「ハマる」感覚がある。実践的な経験と自分の思考・思想とがハマる時、やっと言語化できるんではないかと嬉しくなる。

 

 実家に里帰りした際に、お食事を御馳走になった名栗のおじいさんからもらった『自由論』(著:内山節)著書には、沖縄の田舎で暮らす私に響いた言葉がたくさんあった。それは、実際にお金をたくさん稼ぐよりも生活(生きる活動)に力点を置いて自らで「豊かさ」を作ることができるのではないか?と言う私の人生をかけた大実験の真っ最中というのもあって、100%の自給自足ではないけれど、生活できてかつ、それが楽しい暮らしを作ってみたいという私の願望にこの本はいろんなヒントを与えてくれた。

 この本の中で語られている、価値があるもの・そうでないもの、何を価値とするかと言う話をここではしたいとおもったのだ。こりゃ、面白いのだ。

 

 まずは、水とダイヤモンドの話から。これは、アダムスミスの『諸国民の富』の中にある話で、水には人が生きていく上で必要なものとして「使用価値」があり、そのものが持っている「有用性」があると言っている。この生きていく上で必要なもの(「有用性」)に、包まれている時、暮らしが「豊か」になる。一方、ダイヤモンドには、使用価値はないが「交換価値」があると言う。市場経済において、価格として現れる交換上の価値のことである。

 

 ようは、市場経済において交換上の価値とは商品の価値で、簡単に言うと「お金」になることだ。ダイヤモンドはお金になるが、水は人が生きていくのに必要なものであるのに価格に変換すると、ダイヤモンド程高くならない!これは、水に価値がないってことではなくて、そもそも価値の物差しが違う!って言っているのだ。

 

 しかし、昨今はアメリカはじめ我が国日本も「市場経済」なるものが幅をきかせている。市場経済を、本当にざっくり説明するとお金によって回る経済のことである。ここで、お金以外の経済があるの!?と思う人もいると思うが、これはのちに説明するとして、最もここは「交換価値」について話たい。

 

 「交換価値」によって回っている市場経済は、何よりそこで「お金」が大いなる価値としてあるから、環境に配慮しない生産方式を採用したり、大量生産をしてしまったり、使い捨て、廃棄なんて問題が出てきてしまう。この本の節では、市場経済には現れない場外の市場があるのでは?と言っている。

 

 それは、つまりわかりやすくいうと「お金にならない経済活動」家庭菜園やボランティアのような「非市場」と言って、モラルエコノミーとも言う。昔は、この非市場が大きなパイを占めて、市場は小さかった。そこで行われていたのは、物々交換や市場を介さない交流であった。しかし、現在はまさに、そのパイは逆転した。市場が大きなパイを占め、非市場は都市は稀で田舎では多少残る形に変容した。

 

 少し個人的な話をしたいと思う。それは、最近私があるSNSの投稿で落ち葉をごみ袋に入れてゴミ取集車が運ぶという至って単純な知人の投稿だったのだが、なんだか不思議な気持ちになったのだ。それは、私が今新たに新居で家庭菜園を始めるべく堆肥になりそうなものを探していたため、わざわざゴミ袋に堆肥になる落ち葉をつめることが不思議でたまらなかったのだ。私にとって、そのゴミ袋に入った落ち葉は「有用性」があるものだった。でも、それは市場においては価値ないものということだ。まさしく、それはゴミなのだ。

 

 水の話を思い出そう、水は人が生きていく上で価値あるものだ。これを「使用価値」というのだが、そこには「有用性」というなくてはならないという意味がある。私の生活は、実は結構「交換価値」も多い。服や靴、使い捨てのものもある。100%は「使用価値」や非市場に身を任せることはできない。でも、身の周りのものを有用なものへと高めていくことは可能なのかも!と思ったのだ。例えば、草刈りした後の枯れ技は燃やして灰にすれば畑に混ぜて栄養になるし、飲み終わったコーヒーは灰皿に入れたら消臭できる。

 

 

 要は、こんな有用なものへと高めていく人間の文化を創造する自由が私にはあるんだ。とすごく、晴れやかな気持ちになったのだ。

 

 実際、生活に力をいれると言ってもお金がなさすぎる時があって落ち込んだり、結局「この世は、お金をたくさん稼いだ方がいいのでは?」と不安になったりする。でもやっぱり70年代のヒッピーではないが、こんな不安定すぎる情勢の中で確かなものを自分の手で生み出していくことの自信や強みはあるのだと思う。大学時代も感じたことなのだが、人と違うことを前提に何を選び取り、そこで学びとるかというのが大事なことなんだなと思い出しました。

「人間らしい暮らし」って

 久々に描くペンも置いて、耕すのも休めて文章を書いてみようと思うのです。

 なんだか、いつも「おりゃっ、文章を描くぞ!」と力みすぎて、本当に伝えたいことと

 少しはなれてしまってる気もするから・・・。

 

最近、ふと「人間らしい暮らし」とは?という問いを考えている。正解や不正解なんて、そんな歯切れが良いモノではない問いな気がしてて、究極先に答えを言うときっとその人が楽しんでいたらなんでも良いのかな~思う。例えば、高山で日本酒を飲みながら絵本やを営むあのおじちゃんや、岡山の山奥で草木染めで帽子を作り幸せに暮らすあの夫婦や、土浦できっと家庭菜園をしながら静かに暮らしている彼や、大阪で週5日間しっかり子供の前で教壇に立ってる彼も・・・。きっと、生きて暮らしている。それぞれに面白い「人間らしい暮らし」の定義があるんだと思う。

 

 そんな中で、私にとっての「人間らしい暮らし」ってなんだろうな~って考える。きっと、それはささやかな幸せをどれくらい発見できるかなんだろうな~と想う。この時代に暗くなろうと思えば、テレビや情報に接すると間近にいつだってある気がする。だからこそ、些細なことを幸せに感じる感受性がこの世界のサバイブ術として大事なのかなって、例えばこの前あった出来事として豪雨の次の日に水が全く出なくなってしまったんだ。川水を引いてて、農業用水が集落内で完全にストップしたんだ。畑だけに使う水だったら、まだ良いんだけど・・・我々はシャワーも洗濯機もシンクの蛇口もこの水道だから、生活にダイレクトに影響しちゃったんだ。朝からオクラを収穫して、汗だくだくで帰ってもシャワーに浴びれないってのが3日くらい続くと、心もしんどくなってくるんだよね。今まで、当たり前にあったものが急に使えなくなることは、多い気がする。そんな時、しんどさと同時にありがたみに本当に痛感する。

 

 電気代の支払いを忘れてて、電気がしばらく使えない時もあった。あの時は、友達がラオスのお土産でくれた、ろうそくに本当に感謝した。周りには建物もないから光もない聞こえるのは海の音だけの場所で1人だったから心細かった。それでも、火があるだけで「こんなにも、安心感があるのか」って感動したんだ。暮らしをつくることとは、なんなのだろうか。不便しないことなのか・・・まとまらないけど、不便の中で暮らすと普通のことがとても嬉しく、幸せなことであるって再認識できる気がする。

 

 「人間らしい暮らし」よく食べて、よく寝て、たまにはハメを外しながら、真面目にやって、学びながら、悪戦苦闘して、好きな人と過ごして、幸せを身いっぱいに感じて、闇から逃げず、懸命にやってみることなのかな。「もう嫌だ!」と言って、どこかに行くのはいつだって出来て選択肢として、いつも持っておいて損はないモノだけど、そこからまだ学とれて吸収できるものがあるなら、その「暮らし」を続けたいなって想うんだ。

 

 自分のリズムが暮らしを作るのかなって、少し思う。どんな風な所でどんなご飯を食べたいか?くつろげるスペースには何があってほしいか?とか、自らに問いかける「?」のアンサーが暮らしをつくっていくのかな。生きることと、暮らすことと、仕事することに共通している自分だけのもの、それが枠をつくるのかな。

 

 この明確な答えは、やっぱり難しかった。でも自分の中にある「ふわっ」とした体感で習得した概念は少しずつ定まってきた気がするな~。まぁ、暑いので無理はしないで日々を過ごしましょうね。